下諏訪町には諏訪大社下社の二つの社、秋宮と春宮があります。
お散歩がてら2つのお宮にお参りできるという距離です。
両社ともたいていのガイドブックにも掲載されていて、たいがい「彫刻がスバラシイ」と書かれています。
ありがたいことに春宮も秋宮も幣拝殿と左右片拝殿まで、誰でもぐっと近寄って彫刻を見ることができます。
こちらが諏訪大社下社春宮
幣拝殿内部奥の両側、脇羽目には竹と神鶏。
桁には神域を守護する龍が巻きついています。
こちらが諏訪大社下社秋宮
脇羽目には竹に鶴。桁上にも優雅に鶴が舞います。
うん。
確かに素晴らしい。
よく似た造りの両社の社殿にびっしりと刻まれた彫刻は精緻かつ鷹揚。
ひと目で技術の高いものとお分かりになるでしょう?
この2つの社殿はどちらも江戸時代に諏訪地域の大工さんが手がけました。
春宮は大隅(おおすみ)流、秋宮は立川(たてかわ)流という2つの流派の大工集団がほぼ同時期に、技を競うように建てたものです。
春宮を手がけた大隅流は古くから諏訪地域の寺社建築の多くを請け負い、技術と伝統を重んじ、昔ながらの手法で手堅い仕事をする一団。
諏訪地域を治める高島藩の作事方(さくじがた、つまり役所に置き換えるなら建設課というところでしょうか)を務め、城の修繕なども請け負っていた高島藩お墨付きのお抱え職人集団です。
彼らの技術の高さは、例えば地震で崩れた高島城の石垣を直すために、天守閣をやぐらで吊り上げるという工法を用いたところからもうかがい知れます。
一方、秋宮を手がけた立川流。
こちらは上諏訪の桶職人の息子が初代です。
家業の桶作りに興味がなく絵ばかり描いて13歳で父親とケンカし、江戸の呉服店へ出されましたが、修行そっちのけで幕府お抱えの彫刻家の家に出入り。
しかしそこで学んだ建築の技をめきめき伸ばして、師匠宅の職養子を望まれたものの二十歳でUターン。
いったん郷里のお堂を手がけ技術を認められるも、大隅流の建築を見て「これでは敵わない」とさらに再び江戸へ修行に。2度目の帰郷で、建築請負業を開業しました。
第一作目の白岩観音堂(茅野市、現存)で高い評価を得た彼、立川和四郎富棟が次に請け負った仕事は、なんと!
下社秋宮幣拝殿・左右片拝殿の再建の仕事でした。
これを聞いた大隅流の棟梁、伊藤(柴宮)長左衛門はびっくり仰天。
ひらりと突然現れた新進気鋭一派にこんな大仕事が回ったのを見て黙ってはおられません。
藩が提示した金額の約半額、しかも扶持米(いわゆる給与)ナシ。
自腹を切って取り掛かることについて藩から承諾を受け、そして秋宮と同じ図面を用いて請け負うこととなったのです。
大隅流のプライドをガツンと感じるエピソードです。
こうして、下社両社の幣拝殿・左右片拝殿はまるで双子のような形となりました。
彫刻はどちらも甲乙つけがたい素晴らしいものです。
春宮幣拝殿
こちらは春宮幣拝殿。
木鼻には唐獅子と牡丹。
眼を大きく見開き、今にも飛び出してきそうです。
秋宮幣拝殿
そしてこちらは秋宮幣拝殿。
木鼻には唐獅子と象。
象のユニークな表情にやわらかな印象を受けます。
その上に表現された水煙の見事な透かし彫りも見逃せません。
神社の装飾に使われるモチーフは、おめでたいもの縁起のいいものが好まれて彫り付けられます。
獅子に牡丹、象はよく用いられるモチーフです。
この両社についても例外でなく、他の部分にも中国の故事や物語にちなんだものも多く取り入れられています。
数年前、国重要文化財である下社両社幣拝殿および左右片拝殿の修理を行う際に文化庁が調査をしていきました。
建物を実測したデータを文化庁から取り寄せた諏訪市内の建築士さんは、二社のデータを重ねたところ、あることに気が付きました。
なんと、秋宮の左右片拝殿は、中央部の幣拝殿からほんの僅かに手前へ出ているのです。
それは「10mで18㎝手前に出る割合」。
実際、現地に立ち、秋宮の一の柱側から片拝殿の欄干を基本にたどっていくと…
…確かに…!
写真ではわかりにくいのですが、反対側の片拝殿がわずかに前に出ているのが見えるのです。
これはきっと、春宮・秋宮で共通した基本設計でありながら、春宮にぐっと差をつけるために、きっと立川富棟が施した仕掛け。
手前に迫ってくるような迫力を表現するための視覚的効果を狙ったのかもしれません。
さらに深読みすると、ここ下諏訪宿は中山道と甲州道中の合流点。
人の往来も多く、秋宮を見た人の「下諏訪宿で見たアレはすごかった!」という口コミを狙った可能性もあります。
「してやったり」と、ニヤリする富棟の顔が浮かぶようですなあ。
この後、立川流は諏訪に拠点を置きながら、全国各地で建築請負の仕事を展開します。
「商売人」としては立川流の方が一枚上手だったのかもしれませんね。